硯 文房四宝の日中交流

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硯 文房四宝の日中交流 昭和十六年、高島屋大阪店で中国硯の展観が開かれました。
日中戦争の最中、歴代硯をとおして中国文化歴史の素晴らしさを紹介しようとする人たちが居られました。
日中文化交流、友好の基点は文房四宝にあると言っても過言ではありません。
現在と比較して、往時は中国文化が日本の歴史や文化に与えてきた重要要因であることを知る人は少数でした。今紹介する諸賢を含めた文人の方々が日本人への啓蒙に寄与され、今日の日中文化交流、友好の広がりの基点となったといえます。
硯 文房四宝の日中交流 癡雲山荘主収蔵(ちうんさんそうしゅしゅうぞう)
支那古名研陳列当時、最高レベルの写真印刷技術であった「コロタイプ印刷」で制作されたものです。

御鑑賞日 昭和16年十月廿八日・廿九日・三十日
會期   同  十一月一日より五日まで
會場   大阪難波 高島屋・七階ホール

註 研・表紙題字中、研とあるのは硯を意味する
硯 文房四宝の日中交流
序文 小野鐘山
古来文人墨客(ぶんじんぼっきゃく)必須の要具たる文房具四寶は、實に東洋獨特の發達を遂げたもので、就中(なかんづく)硯は唐以来其硯制(けんせい) の發達著しく、其彫琢の道程が、時の文化と基調を同ふ(おなじう)して、風韻最も愛すべく、琢硯の手法上に著れたる一種の藝術として見ることが出来るので ある。
癡雲山房主人藤村義苗氏は、東京に於ける屈指の愛硯家で、其在世中に蒐集蔵弄(ぞうろう)せるもの六百餘方に及んだものである。 今回大阪高島屋主催の 下に、遺愛硯中の粹を拔いて同好博雅の展観に供するとのことであるが、事變(じへん)が起つて以来種々の事情のために、舶載の硯は頗る寥々たる今日、故人 が二十餘年間に蒐集せる各種の硯を鑑賞する利益は蓋(けだ)し甚(はなは)だ大なるものと信ず。故人の藏硯中には宋以来の各種硯數多あり、縦観すれば硯の 歴史となり、横観すれば硯材比較の好資料たることを疑わぬ。
敢えて所信を一言して、同癖諸賢の清賞を切望すと云ふ。

昭和十六年十月            東京  小野鐘山゛

文人墨客・文才があり詩書画に巧みな人。それらのセンスがある人
就中・なかんづく、とりわけ 蔵弄・楽しみ余裕をもって収蔵すること
硯制・硯の製作技術  事變(じへん)・日中戦争 舶載・輸入 彫琢・彫刻、装飾の技術やセンス
同癖諸賢・同じ趣味を持つ先輩。謙遜語
小野鐘山・有名な硯の研究家で蒐集家

硯 文房四宝の日中交流 註・字数に制限あり、一行字数は原本と異なる
日華文化の交流が高潮せらるゝ現下の我邦(がほう)にありて東亜文房具の重要性はこゝに喋々(ちょうちょう)を竢(ま)たぬ。同文同種の日華両国はけん硯 ぴつぼくし筆墨紙を共通に使用しその扱ひ振りに於いては西人の容易に這入つて來られない 優雅な幽玄味を漂はせて居る。
東亜文化の悠久な建設はこれら共同の文房具に轉る事多きは勿論である。東亜の書画文獻を表現する上の要具としてまた善隣友好を緊密ならしむ一手段としてこれら文具の愛好宣揚は頗(すこぶ)る意義深きことゝ信ずる。
わけても硯は文房具中の王者と目せられ由来古名硯として重んぜられ名流學者風人の間に寶藏珍玩せられて居る者が少なくない。大陸支那には漢の流沙墜簡、 晋の右軍父子から隋に唐に宋にと遺墨古筆の尊重せらるゝもの汗手充棟(かんしゅじゅうとう)も啻(ただ)ならず従ってその芳墨に因める古名硯の愛玩磨墨を 始めとし之に關心を倚する者が非常に多い。硯の性格は本來石である處から永久的な生命を有し時代の浪を超越してその任務を完(まっと)うしている。
硯は時代の氣を迎えてゐる譯でないが黙して居て却つて時人風人の心を牽いてゐる。特に美材の至寶天成と稱せられるゝものは曷(いずくん)ぞ彫琢をもちひんやと所謂(いわゆる)硯板のまゝで自ら高く止まつて居るものさえある。
然し一般の古名硯を以って目せらるゝものは石品の優又は剛にして之に高雅な姿をとらしめ枯淡幽遠の彫刻が施されてゐる。高士の好んで鍾愛する名硯とか又 名門の寶藏愛撫する古硯とかは大體かゝる逸品に屬してゐる。古来一千有餘年、歴史上に喧傅せられて居る名硯の美材といふは廣東の端渓に安徽の歙州、山東の 紅緑、甘肅の河、四川の蒲江、湖南の《(れい)に黎》渓(たに)などと云った風に多數ある。そのうち古名硯は又おのづから頭の下がる品格を具有してゐる。
癡雲山荘主故藤村二龍翁は硯癖を以って斯界に聞え東亞各種各様の古名硯や重要参考資料の蒐集に半生を投じ四百餘州の硯種を網羅せずんば止まらざるの熱意を有してゐられた。

山口蕙石子大倉鶴彦男和田豊治翁犬養木堂翁加藤拓川翁正木直彦翁、武内金平翁などの洗硯會雅友達の間に重きをなし大陸の畫人金紹城(拱北)などは硯の藏研を推賞し命名をした事もあつた。善隣友好の機漸く濃く南京汪精衛主席の來往後曽仲鳴未亡人の來游を見たる辛巳の秋今又藏硯家二龍翁の遺品が天下雅人の清鑑に供せらるゝ機を見たことは翁の生前硯席談笑裏にゐた自分として之が有意義の催しであると思ひ衷心喜ぶ所である。
昭和十六年歳次辛巳秋十月十八日       石農 後藤朝太朗 しるす

流沙墜簡・中国北西の砂漠から発掘される木簡や竹簡
山口蕙石子・山口蕙石子爵の脱字
大倉鶴彦男・大倉鶴彦男爵の脱字
和田豊治翁・アラビア石油社長

加藤拓川翁 正岡子規の叔父 外交官、衆議院議員 シベリア撤兵に貢献 晩年松山市長を務め松山大学創立に尽力

犬養木堂翁・犬養首相、文人として知られ日中文化交流に貢献
正木直彦翁・東京美術学校校長 現東京芸術大学
洗硯會・高級中華料理店《晩翠軒》にて開かれていた硯の鑑賞会、日本画重鎮黒田清輝もメンバー
右軍父子・書聖王羲之と息子の王献子

南京汪精衛主席 汪兆銘 中国革命同盟会のメンバー。1917年、広東軍政府に参加し国共合作を推進。孫文の没後国民党左派指導者。蒋介石と一時対立する。日中戦争中、日本との和平運動を起こし、日本の支援により南京政府を樹立した。戦後日本に亡命し名古屋で病死。1885~1944

曽仲鳴・汪兆銘の側近 重慶政府の工作員に暗殺される

後藤朝太朗氏の序文からも分かるように日中戦争最中、中国文化歴史の素晴らしさを日本に啓蒙する人々が居ました。バブル期、骨董集めの為の骨董集めに狂奔 する人が輩出しましたがそうではないのです。明日のために古を知る、それがここで紹介する人たちなのです。

藤村義苗 東京高商・現一橋大学卒、論文『関西地方商工業實視報告書』共著1925年
母校の同窓会組織・如水会3代理事長・昭和5~6年 東京高商卒業後日本鉄道《国鉄の前身》に入り後、保険会社萬歳生命を創業、如水会設立関係者の1人
収録硯一部紹介させていただきます
端渓水巌 胡蝶猫(こちょうびょう)研 端渓水巌 胡蝶猫(こちょうびょう)研

長 五寸
厚 八分
濶 五寸二分

水巌・水成岩
《胡蝶猫・ペルシャ猫と蝶々》
濶・幅のこと
研・彫刻形式

端渓古坑 蘭亭大研 端渓古坑 蘭亭大研

長 八寸八分五厘
厚 二寸八分
濶 五寸三分五厘

端渓水巌 雨淋牆青花(うりんそうせいか)半月研 端渓水巌 雨淋牆青花(うりんそうせいか)半月研
長 四寸二分
厚 六分
濶 七寸四分
端渓水巌 御物式太極(ぎょぶつしきたいきょく)研 端渓水巌 御物式太極(ぎょぶつしきたいきょく)研

長 八寸八分
厚 七分
濶 五寸七分

御物式・皇帝への献上品
太極・宇宙

蓬莱緑玉(ほうらいりょくぎょく)研 洮河緑石(とうがりょくせき) 蓬莱緑玉(ほうらいりょくぎょく)長 五寸九分
厚 二寸一分
濶 三寸五分

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