筆ができるまで

筆の製造工程です。

1969年、広島県熊野町史芳堂協力にて撮影《撮影・玉林堂店主 藤尾瀞》

わたぬき すり毛除去
①わたぬき ②すり毛除去(不要な毛を除去)
すり毛抜き 寸法切り 根揃え
③すり毛抜き(不要な毛) ④寸法切り ⑤根揃え
鋼板に束ねた原毛をあてて揃える
毛さらえ 芯立て
⑥毛さらえ(再度不良毛除去) ⑦芯立て(穂首の形にする)
軸入れ のり仕上げ
⑧軸入れ ⑨のり仕上げ
穂首にふ糊を含ませ再度練り櫛で揃える
天日干し 選別
⑩天日干し ⑪選別(チェック)
お客様の元へ そしてお客様の元へ
紹介写真以外の製作工程も多数あり、
職人の分業により作り上げられています。
製造道具 左から
コマ・穂首の寸法調節
分差し・筆軸や穂首の寸法を測るあて木・毛を挟み揃える
はんさし・不要な毛を取り除く
筆櫛・穂首の中のくず毛を取り除
いたり揃えたりする

寸法取り寄せ板 寸木・原毛の寸法取り
寄せ板
製造道具 玉林堂が昭和30(1955)年代
まで使用していたもの
明治30年頃の毛筆製作風景
明治30年頃の毛筆製作風景
藤尾善之助 (右端 4代目店主)
藤尾武明   (中央手前 5代目店主)
玉僊斎藤尾善之助作 藤尾瀞
玉僊斎藤尾善之助作
黒水牛軸と白馬毛を使用。軸の中に中筆が収納されている。
6代目店主 藤尾瀞

筆の出現

筆という文字は中国殷代《紀元前約1700年》の例①甲骨文字《亀の甲羅や獣骨などに刀で刻む文字》に見え、棒状のものを手で持つ形を表わしております。

甲骨文字・「筆」甲骨文字「筆」 篆書文字 金文「筆」 篆書文字 金文「筆」 篆書文字「筆」 篆書文字「筆」

例①甲骨文字・筆
例②篆書文字金文・筆
例③篆書文字・筆

青銅器の銘文に見える例②篆書文字金文は下部がかすかに膨らみ、穂首が付いていると想像できます。
その後青銅器だけではなく銅印等が出現し篆書文字は進化をします。冠や編を使うことで分類が始まり象形文字からそれらを組み合わせることで多種多様な文 字が生まれました。

例③は竹冠を配することから竹管が使用されたことを表わしております。
これらの点から約3700年前に筆が存在していたと推定できるわけです。
①から推定できるのは棒状のものであったということのみで、獣毛の穂首が配されていたかどうかは分かりません。

毛筆の出現

昔の説では中国秦代《前221~207年》に蒙恬という人が初めて作ったとされておりましたが1928年に発掘された殷代の遺跡から墨で書かれた甲骨文字、戦国時代の遺跡からは兔毛竹管の筆が発見され、蒙恬説は覆されました。

日本への伝来

定説では弘法大師空海が唐で製筆を習い大同元年《806年》日本に持ち帰った、とされております。しかし貝原好古著『大和事始』によると唐から筆工 が多数 渡来した、とあり、日本書紀によると応神15年《404年》百済王の使者・阿直岐の来朝や翌年王仁の来朝により論語や千字文がもたらされた、とあることか ら弘法大師以前に毛筆は存在したと考えられます。

最初に伝来した筆

最初唐から伝来した筆は、芯になる毛を束ね、下部を紙で巻き、さらに糸で縛り、その周囲を毛で被いて《上毛》作られていました。その構造は、楷書を 書くのに適し、当時重要な地位を占めていた写経に最適でした。現代の芸術書道ではなく、写経以外の文献の筆写や公文書作成が主たる目的でした。この構造を 持つ筆を有芯筆と称します。

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筆と書体

筆と書体に革命が始まりました。書聖といわれた酒豪の詩人、張旭が酒場で興に応じて詩が沸き出で、筆の穂首の腰を折り、筆を走らせ楷書ではなく続け て書いたのです。 結果それが草書になりました。詩の韻律《イントネーション》に合わせてを揮毫しました。瞬間に湧き出た詩を書き留めるのには楷書を崩した草書が最適だった のです。
さばいた穂首の筆により芸術書道、無芯筆の萌芽が始まりました。
無芯筆は大きな書作品に適し、よく掛け軸にあるような作品を専門用語では條幅と称します。しかし当時の日本では、それらの影響は受けず小作品が主流を占めていました。
掛け軸にあるような作品《條幅作品》が日本に定着するのは時代が下った江戸時代、明から来朝した禅僧が持ち込んだ彼らの揮毫作品でした。
それが原因として日本の製筆に影響を与え、無芯筆への取り組みが始まりました。

田淵実夫著『ものと人間の文化史』(法政大学出版局刊)によると、豊橋の武士、細井広澤は輸入された無芯筆を幾度も分解し研究した、とあり多くの筆工も試行錯誤をしていたと推測できます。
江戸中期大坂城で侍たちに書道や漢学、儒学を教えていた長崎生まれの妾腹の帰化僧・趙陶斎の随筆に『そのしるしの妙、言語を絶す。百本あれば百本各々別 なり』とあり、品名が同じでも全部異質である、と嘆き、当時の筆工が未熟であったことを示しています。新しいタイプの中国毛筆《唐筆と称します》、その模 倣が成立してなかったのでしょう。米田彌太郎著『趙陶斎随筆考』(1977年・書論)
新しい筆・無芯筆製作の試みは豊橋、大坂等で始まったのです。

大坂の筆づくり

南町奉行所の記録《柳原書店刊・浪花叢書》によると下表のような大坂の職業リストがあります。

時代 筆師《筆工を抱える》 筆軸屋
延享七年 1747年 61軒 24軒
安永六年 1777年 48軒 10軒
享和元年 1801年 48軒 10軒


筆師というのは筆工を抱えた棟梁のようなものですが、筆づくりは分業であることから、従事する人は多数いたと推測できます。
正徳四年《1714年》の奉行所記録によると、筆毛鹿皮が年間で1万1511枚《総額2万1042両》入荷された、とあり、当時の大坂は巨大な毛筆生産地であったことがわかります。

筆毛鹿皮

鹿毛を原料とする筆が作られていた、ところが鹿の毛は毛先が折れやすく適さないと言います。年間を通して安定供給が可能で毛先が折れていない鹿、そのような鹿はどこに行けば捕獲できるのでしょうか、鹿の牧場なら餌も与えられ暴れ回っていないので毛先も折れません。
牧場、奈良春日大社の鹿なら・・・・年間二万両あまりの売上、庶民が捕獲することを禁じていたのは、この豊かな資金ではないでしょうか。
1700年代大坂、多くの町民文化人が輩出しました。漢学者は二百人を超え町民文化が栄えました、大坂の筆作りは朝廷や武家社会に育てられたのではなく、町人文化人、町人知識層が育てた、といっても過言ではありません。

明治期に入り大阪天王寺で開催された内国勧業博覧会の資料によると毛筆を出品した筆師は奈良よりも大阪のほうがはるかに多く、新しいタイプの毛筆・無芯筆の生産が定着していたわけです。
今日の大阪では筆作りは無いにも等しく、産地への製造委託が主流ですが伝統が監修し製造委託することにより独自性を保っています。《文責・藤尾博》